PROFILE 03/6/4

 スティーリー・ダンとはドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーの二人を中心としたバンドまたはユニットの名称。デビュー当初は6人編成でしたが、レコーディングでは多数の外部ミュージシャンを起用、最終的に構成メンバーは二人だけとなりました。スティーリー・ダンの曲はすべて二人の共作なので当然の帰結といえます。ベッカーとフェイゲンの見境のないこだわりの結果、8枚のアルバムにクレジットされたミュージシャンは総勢100名ほどに上ります。キリがないので、ここでは正式メンバー、初期のツアー・メンバー、複数曲に参加した主なミュージシャンを取り上げました。写真はなるべく当時のものを使っています。名前の下の数字(リリース順)はレコーディング・メンバーとしてクレジットされているアルバムを表します。またベッカー、フェイゲンと深い係わりがあった人物も取り上げました。

FAGEN, BECKER / NICHOLS, KATZ
Vocalists / Guitarists / Bassists / Drummers / Keyboardists / Horn Players / Engineers / Others


FAGEN, BECKER

Donald Fagen ドナルド・フェイゲン
 作詞作曲編曲、そしてボーカル。ウォルター・ベッカーとともに妥協を許さない完璧主義でスティーリー・ダンの独特の音世界を作り上げた。スティーリー・ダンのキャラクターを決定づける個性的な歌声の持ち主。決してテクニカルではないし、彼が理想とする典型的なブルーアイド・ソウルの声でもない。どちらかといえばヘタウマの部類に属すると思うが、それにしても強烈な個性である。ピアノの演奏はジャズの影響が非常に濃く、なかなかのテクニシャン。音楽的な自信とは裏腹に肉体的なコンプレックスは相当のようで、歌声に自信がなくデビュー後も歌うことを頑なに拒否したり、写真に撮られることを極端に嫌ったりといった具合。

Walter Becker ウォルター・ベッカー
 作詞作曲編曲。ドナルド・フェイゲンの唯一無二のパートナー。スティーリー・ダンが持つ奇妙で難解な側面は彼のセンスに負うところが大きいだろう。主にベース、ギターを演奏するが、こちらもギターはヘタウマ、いや下手。フェイゲン曰く「常人には出せないナチュラルなレイドバック感」とのことだが。演奏スタイルはブルース指向で、洗練された後期でもソロでかなり好き放題にやっている印象を受けるが、実は相当つぎはぎしているらしい。ベースでは手堅くラインを踏むことに徹している。本人は自らを自由なアウトサイダーと位置づけている。最近の写真を見るとけっこう茶目っ気を見せているが、根は愉快な人間なのか、丸くなったのか。

 フェイゲンは1948年1月10日、ニュージャージー州パサイック生まれのユダヤ系。比較的裕福な家庭に育ち、すでに小学生のころにはジャズに目覚め、以来ラジオにかじりつき、レコードを聴きあさる。12歳でピアノを覚え、レッスンも受けたが基本的には独学とのこと。高校時代にはブラスバンドでバリトンサックスも吹いたという。65年にバード・カレッジの英文学科に入学。音楽の勉強のためにバークレー大学にも通っていた。
 ベッカーは1950年2月20日、ニューヨーク州クイーンズ生まれ。デイブ・ブルーベックでジャズに目覚め、ポール・デスモンドのソロを全部覚えるまで聴き込んだという。サックスを覚えようとするが挫折、16歳の時にギターを弾き始め、さらにベースも覚える。67年にバード・カレッジに入学。すぐにベッカーは学内のフェイゲンのバンドに入ろうとしたが、あいにく定員で断られたとのこと。

 バード・カレッジの学内でひとり赤いエピフォンを弾いていた新入生のベッカーが学内のバンドを主宰していた3年生のフェイゲンの目に留まり、これが歴史的邂逅となる。二人はお互いに音楽や文学の趣味に共通性を見出し急速に仲良くなった。やがてフェイゲンは大学を卒業、ベッカーはすでに一年で中退、作曲家になることを夢見て一緒にニューヨークはブルックリンへと移り住む。ここからが二人の貴種流離譚の始まり。
 ベッカーとフェイゲンはやっとのことでケニー・ヴァンスによって才能を見出される。二人はせっせとデモテープ作りに励むがなかなか実を結ばず、ジェイ&ザ・アメリカンズのバック・ミュージシャンなどで日銭を稼いでいた。下積みの日々が続く中、やがて二人はヴァンスを通じて知り合った無名プロデューサーのゲイリー・カッツに誘われ、ロサンゼルスのABCレコードの専属作曲家となる。
 しかしベッカー&フェイゲンの書く妙ちくりんな曲は実際に採用されることはなく、ついに二人は自分たちでバンドを組んでデビューすることを決意。そしてニューヨーク時代の知り合いだったデニー・ダイアス、ジェフ・バクスターらを呼び寄せ、スティーリー・ダンを結成した。この名はウィリアム・バロウズの小説『裸のランチ』からとられている。72年のデビュー作『キャント・バイ・ア・スリル』からは「ドゥ・イット・アゲイン」の大ヒットが生まれ、二人は早くも成功を手にした。
 スティーリー・ダンは当初からベッカーとフェイゲンの作った曲を具現化するための存在だったため、二人はバンドの枠にとらわれることなく、その曲にふさわしいミュージシャンを起用した。その偏執的なこだわりは作品を追うごとに増し、また二人がライブを嫌がったことからメンバーは次々と脱退してバンド形態は崩壊、やがてはベッカーとフェイゲン、プロデューサーのカッツの三者によるユニットへと変貌していく。
 ベッカーとフェイゲンは、ポップスやロックという範疇に収まりながらもジャズや無国籍風のエッセンスを巧みに取り入れ、さらに衒学趣味ともいえるほど難解で奇妙な歌詞によって、その独特の音世界を作り上げた。
 後期には主にフュージョン系の売れっ子ミュージシャンを起用、単なるジャジーさにとどまらないクロスオーバー的なシャープで洗練された音を指向し、77年作の『彩(エイジャ)』の大ヒットと高評価によってスティーリー・ダンの名声を決定的なものにした。しかしこれをピークにベッカーとフェイゲンのコンビは飽和状態となり、81年にスティーリー・ダンとしての活動は停止する。
 フェイゲンは82年にソロ作『ナイトフライ』をリリースし、スティーリー・ダン同様のヒットと高評価を得るが、その後は客演やサントラへの曲提供が散見された程度でほとんど隠遁。ベッカーはスティーリー・ダン末期の麻薬中毒から脱するためにハワイへ移住。85年にプロデューサーとして現場復帰し、二人の共同作業もあったが活発ではなかった。
 何を思ったか92年ごろから二人の活動が活発化、それぞれソロ作や世界ツアー、オリジナル・アルバムのリリースなどでスティーリー・ダンとしての活動を再開、現在に至っている。


NICHOLS, KATZ

Roger Nichols ロジャー・ニコルズ
1,2,3,4,5,6,7,8
 ベッカー、フェイゲンから絶大な信頼を寄せられ、スティーリー・ダンの第一作からフェイゲン、ベッカーのソロ作も含め現在まで一貫してチーフ・エンジニアを務めている。これまでグラミー賞の最優秀エンジニア賞に5回ノミネートされ3回受賞した。高校時代はフランク・ザッパの同級生で友人。大学では原子力を学び発電所に勤めていたが、趣味半分で作ったスタジオでCM音楽などを作るようになる。そこにはカーペンター兄妹やまだ無名のラリー・カールトンが録音に参加していたとか。やがてスタジオが本業となり、評判を呼んでABCレコードのエンジニアに抜擢され、ベッカー、フェイゲンと出会う。以来スティーリー・ダンに欠くことのできない人物となった。「不死身」の異名を持つ非常に高度な技術力の持ち主で、まだサンプリング技術が普及していなかった時期に高精度のサンプラー「ウェンデル」を自作、『ガウチョ』や『ナイトフライ』のドラム・トラックで実際に使用した。またデジタル・マイクの特許を持っているらしい。

Gary Katz ゲイリー・カッツ
1,2,3,4,5,6,7
 スティーリー・ダンの第一作からフェイゲンの『ナイトフライ』までのプロデューサーを務めた。60年代半ばにインディ・レーベルを立ち上げて失敗するも、プロデューサーとして活動を続け、ケニー・ヴァンスを通じてベッカー、フェイゲンと知り合った。やがてABCレコードに就職し、ベッカー&フェイゲンをダンヒル・レーベルの若手専属作曲家として抜擢、ロサンゼルスに呼び寄せる。やがて彼らの曲は彼ら自身が演るのが一番ということになり、スティーリー・ダンとしてデビューさせた。プロデューサーとしてはもっぱらミュージシャンとの調整役や場の雰囲気を作ることに徹していたらしいが、触媒としてその存在は大きかったように思う。現在はベッカーやフェイゲン、スティーリー・ダンの作品にはタッチしておらず、ひとりの友人。ニューヨークのスタジオ「リバー・サウンド」をフェイゲンと共同経営している。音作りには積極的に立ち入らないポリシーのため、他のアーティストのプロデュース作品ではあまりぱっとしない。以前に10ccがプロデューサーとしてカッツを起用したことがあるが、彼を「何もしない人」とボロクソにけなしていた。


VOCALISTS, BACKUP VOCALISTS

David Palmer デビッド・パーマー
1,2
 スティーリー・ダンのデビュー時のメンバー。「ダーティ・ワーク」、「ブルックリン」でのリード・ボーカル。フェイゲン自身が歌うことに乗り気でなかったため、ジム・ホッダーの旧友だった彼が『キャント〜』のレコーディング中に急遽招き入れられた。もともと音楽性が違う上、仮のボーカリストという位置づけで重要な存在ではなく、酒によるライブでの粗相もたたって73年4月に脱退させられた。

Royce Jones ロイス・ジョーンズ
2
 コーラス、ボーカリスト。スティーリー・ダンにはジム・ホッダーに誘われて参加、73年から74年8月まで在籍した。コーラスのほか、ライブでは一部の曲でリード・ボーカルも務めた。ブートで彼のハイトーンの歌声が聴ける。

Michael McDonald マイケル・マクドナルド
4,5,6,7
 数々の曲で一聴して彼とわかるコーラスを聴かせる。74年3月から75年4月までコーラス、キーボーディストとしてツアー・メンバーを務めた。以後はジェフ・バクスターの誘いでドゥービー・ブラザーズに加入したが、その後もコーラスでゲスト参加している。ドゥービーでの大活躍は賛否両論あるものの周知の通り。

Timothy Schmit ティモシー・シュミット
3,5,6
 コーラスで参加。ランディ・マイズナーの後を受けてポコに加入し、その後またもやマイズナーの後を受けてイーグルスに加入、ヒット曲「アイ・キャント・テル・ユー・ホワイ」などでボーカルをとった。溶けのいい声質ゆえか西海岸ロックでのゲスト・ボーカル参加は数多い。


GUITAR PLAYERS

Denny Dias デニー・ダイアス
1,2,3,4,5,6
 初期スティーリー・ダンの最重要人物の一人。彼が組んでいたバンド「デミアン」のメンバー募集でベッカー、フェイゲンと知り合い、二人の才能に感服して一緒にデモテープを作ったり、二人の仕事を手伝ったりするようになる。その活動は自然消滅するが、彼は二人からの連絡を待ち続け、やがて念願かなってベッカーとフェイゲンがバンド・デビューする際に誘われてスティーリー・ダンの結成メンバーとなる。メンバーが次々と脱退していく中でも彼は居残るが、外部ギタリストの起用が多くなるにつれて出番が減り、75年4月には正式メンバーではなくなり、『エイジャ』を最後に完全に脱退した。初期の作品ではジャジーな技巧にあふれる演奏でスティーリー・ダンの音に独特の彩りを与えたが、あまり評価されていないのが残念。初期のライブで見られる陶酔の表情でギターを弾く姿は、むさいルックス、変な衣装と相まって愉快。大学時代には数学やコンピューターを学び、音響に関する知識も豊富な理系人間で、現在はコンピューター関係の仕事をしているとのこと。ベッカー、フェイゲンは彼に多大な謝意を示しており、いまだ縁は切れておらず、90年代のツアーの一部ではゲストとしてステージにも上がった。

Jeff "Skunk" Baxter ジェフ・"スカンク"・バクスター
1,2,3
 いくつかのバンドを経てボストンでセッション・ギタリストとして活動し始めたころ、カッツを通じてベッカー、フェイゲンと知り合い、後にスティーリー・ダンの結成メンバーとなった。初期の作品でのペダル・スティールが耳を引く。「リキ〜」のソロはスティーリー・ダンとしてのキャリアでは一番の名演。74年8月に脱退させられ、それまで数曲でゲスト参加していたドゥービー・ブラザーズに加入する。ジャズやカントリーの素養を持ち、アメリカのロック・ギタリストの中でもユニークな奏者として非常に名高い。

Elliott Randall エリオット・ランドール
1,4,5
 ベッカー、フェイゲンとはデビュー前からの知り合い。『キャント〜』で2曲にゲスト参加した時に正式メンバーに誘われたが断ったという経緯がある。しかしその後の作品にもたびたび招かれ、「グリーン・イヤリング」などで彼ならではの大いに個性的な演奏を聴かせている。自身のバンドもあったが客演も豊富で、99年にはサミュエル・パーディのデビュー作に参加、中期スティーリー・ダン風の音作りに一役買っている。

Rick Derringer リック・デリンジャー
2,4,7
 60年代から70年代にかけてアイドル的人気もあった技巧派ロック・ブルース・ギタリスト。当時はエドガー・ウィンター・グループの要。参加セッションも幅広く、ウィンターのほか、アル・ヤンコビックなどのプロデュースでも有名。ソロとして「ロックンロール・フーチークー」などのヒット曲もある。

Dean Parks ディーン・パークス
4,5,6,7,8
 LAの売れっ子ギタリスト。ウエストコースト系の作品では必ずと言っていいほど彼の名を目にする。持ち味の小気味よいカッティングはまさに上手いの一言。

Larry Carlton ラリー・カールトン
4,5,6,7
 フュージョン界のトップ・ギタリスト。クルセイダーズをはじめ、さまざまなセッション活動で名声を確立、ロックからジャズにまたがるまさにクロスオーバーな演奏を聴かせる。後期スティーリー・ダンにおける最重要人物の一人。実際の演奏において他のミュージシャンとの橋渡し役でもあった。「キッド・シャールメイン」のギター・ソロは数あるキャリアの中でもベストの部類に属するだろう。88年に銃撃されて重傷を負ったが一命をとりとめ、現在も精力的に活動を続ける。ソロ作の代表曲「ルーム335」が「ペグ」の引用というのは周知の通り。ソロでは「ジョージー」のカバーも披露している。

Hugh McCracken ヒュー・マクラッケン
4,5,6,7,8
 「バッド・スニーカーズ」や「ヘイ・ナインティーン」などで控えめだがセンスのいい味のあるバッキングを聴かせる。セッション参加もフュージョン系をはじめ多岐にわたる。

Steve Khan スティーヴ・カーン
6,7
 人気フュージョン・ギタリスト。『ガウチョ』ではほぼ全曲にわたって演奏。「グラマー・プロフェッション」などでジャジーなソロを聴かせる。後に味わい深いインスト曲「リフレクションズ」をフェイゲンと共作、ハル・ウィルナーのセロニアス・モンク追悼盤に収められた。


BASS PLAYERS

Wilton Felder ウィルトン・フェルダー
3,4
 クルセイダーズのベーシスト、サックス奏者として有名。70年代のジャズ・ファンク系での客演も多い。

Chuck Rainey チャック・レイニー
3,4,5,6,7
 R&B、ソウル系セッション・ベーシストの第一人者。後期スティーリー・ダンにおける最重要人物の一人。単調に流れないグルーヴ感あふれるラインとビブラートを効かせたハイノートが特徴的。「エイジャ」や「ペグ」ではフェイゲンに隠れて弾いたというチョッパーも聴ける。中後期の作品ではほとんど専属といっていいほどの活躍ぶりで、スティーリー・ダンの裏も表も知り尽くしているようだ。

Anthony Jackson アンソニー・ジャクソン
7
 当時は若手ながらフュージョン界では超売れっ子だったベーシスト。現在も第一線で活躍中。


DRUMMERS

Jim Hodder ジム・ホッダー
1,2,3
 ジェフ・バクスターとはボストン時代の友人だったことから、彼の誘いを受けスティーリー・ダンの結成メンバーに加わった。「ダラス」、「ミッドナイト・クルーザー」ではリード・ボーカルをとっている。ドラマーとしてはそれなりで、ベッカーとフェイゲンの望む実力に達せず、74年8月にバクスターと同時に脱退させられた。その後はサミー・ヘイガーなどのレコーディングに参加した。90年に水難で死去。

Jim Gordon ジム・ゴードン
3
 LAで数々のセッションに参加して名を上げ、デラニー&ボニー&フレンズを経て70年にデレク&ザ・ドミノスに参加、名声を決定的にした。かの名曲「レイラ」の後半部の作曲者でもある。エリック・クラプトンをはじめジョージ・ハリスン、プラスチック・オノ・バンドなどでの活動もよく知られ、70年代ブリティッシュ系ロック・シーンを語る上で欠くことのできない人物である。

Jeff Porcaro ジェフ・ポーカロ
3,4,7
 ダイアスのつてで『プリッツェル〜』の録音に参加した当時は若干19歳。その後はツアー・メンバーとしてバンドに参加した。「ユア・ゴールド・ティースII」などで好演を聴かせるが、差し替えなどの辛酸もなめている。『ロイヤル〜』ではレコーディングに参加したもののクレジットがない。ボズ・スキャッグスのバックを経た後にTOTOに参加、その名を広く知らしめた。92年、自宅で殺虫剤散布中に急死。

Bernard Purdie バーナード・パーディ
4,5,6,7
 R&B、ソウル系セッション・ドラマーの第一人者。グルーヴの王様。アトランティック・レコードのドラマーとしてアレサ・フランクリンのバックを務め、同時にキング・カーティスでの熱演で勇名を馳せた。当時はハミング・バードのメンバー。シャッフルの名人でもあり、「ホーム・アット・ラスト」、「バビロン・シスターズ」は彼の独特なドラムなくしては成立しないとさえいえる。膨大な参加作を列挙して自らをヒット・メーカーであると豪語し、決して自分のスタイルを崩さない大変な自信家でもある。彼を師と仰ぐドラマーは多い。後期スティーリー・ダンにおける最重要人物の一人。

Rick Marotta リック・マロッタ
5,6,7
 タイトで心地よいグルーヴを聴かせる。「ペグ」での絶妙なハットの開け閉めにベッカーも感服したというが、自画自賛しながらも当時のレコーディング技術では100%は伝わらなかったと本人は語っている。『ガウチョ』にも「ヘイ・ナインティーン」などで参加しているが、ほとんどループのようだ。もともとテンポ・キープはしっかりしているが。

Steve Gadd スティーヴ・ガッド
6,7
 フュージョン界のトップ・ドラマー。当時はスタッフに参加していた。「エイジャ」での演奏が有名だが、ワンテイクで録ったとのこと。超一流のテクニックと個性を持つドラマーであり、後進に与えた影響は大きい。ちなみに上手いが小うるさい嫌みなドラマーを指すのに「ガッドみたいな奴」というジョークめいた悪口がある。


KEYBOARD PLAYERS

Victor Feldman ヴィクター・フェルドマン
1,2,3,4,5,6,7
 鍵盤のみならずビブラフォン、パーカッションも演奏。ジャズ界での豊富なキャリアを絶妙なアレンジでスティーリー・ダンに還元した。ベッカーとフェイゲンは彼を尊崇し、相当なインスパイアを受けたようである。特筆すべきは「ブラック・カウ」のローズのソロと「アイ・ガット・ザ・ニュース」のピアノのバッキングであろう。87年死去。

Michael Omartian マイケル・オマーティアン
3,4,5,6,7
 ツボを押さえた流麗なピアノのバッキングで中後期のスティーリー・ダンに欠かせない存在となった。その後クリストファー・クロスのデビュー作のプロデューサーとして一躍名を上げる。

David Paich デビッド・ペイチ
3,4,5
 エレピ、クラビネットの主に「刻みもの」で参加。手首の頑丈さを如何なく発揮している。後にTOTOのメンバーとなり、その名を広く知らしめた。ヒット曲「アフリカ」のボーカルは彼である。

Paul Griffin ポール・グリフィン
5,6,7
 「フェズ」、「ペグ」などでグルーヴ感のあるリフを聴かせる。「ペグ」ではコーラスも務めている。「フェズ」のシンセのテーマのメロディを考え、共作者としてクレジットされているが・・・。近年もニューヨーク・ロック&ソウル・レビューの音楽監督を務めるなど、フェイゲンとの親交は深い。2000年7月死去。

Don Grolnick ドン・グロルニック
5,6,7
 「キッド・シャールメイン」、「ブラック・カウ」などで味のあるクラビネットを聴かせる。当時はブレッカー・ブラザーズのメンバー。晩年はジェームス・テイラーとのコラボレーションを主な活動としていた。96年、癌のため死去。

Joe Sample ジョー・サンプル
6,7
 クルセイダーズ、ソロをはじめ、フュージョン系のさまざまなセッションでの活躍で知られる。ローズの名手としてリチャード・ティーと並び称される存在。

Rob Mounsey ロブ・マウンジー
7
 キーボードのみならず、『ガウチョ』のホーン・アレンジをトム・スコットと分け合った。フェイゲンのソロ活動でも一緒に仕事をしている。


HORN PLAYERS

Tom Scott トム・スコット
5,6,7
 後期の作品ではサックスだけでなく、一連の垢抜けたホーン・アレンジも手がけている。「ペグ」ではリリコンを、「バビロン・シスターズ」ではクラリネットも演奏。いかにも西海岸的な軽く明るい味を持った奏者である。

Pete Cristlieb ピート・クリストリーブ
6,7
 テナーサックス奏者。「ディーコン・ブルース」や「FM」で流麗なソロをとっている。後に自身のリーダー作でフェイゲンから曲提供を受けた。


OTHER ENGINEERS

Stuart Dawson スチュアート・ドーソン
4
 初期のライブでPAエンジニアを務め、ベッカーとフェイゲンから絶大な信頼を寄せられた。『ケイティ〜』ではサウンド・コンサルタントとしてクレジットされている。

Elliot Scheiner エリオット・シャイナー
5,6,7
 中後期の作品でニコルズのアシスタント的役割を担い、後にミックスダウンも手がけるようになった。スティーリー・ダンでの腕を買われてAOR系作品を数多く手がけている。また「ニューヨーク・ロック&ソウル・レビュー」では共同プロデューサーとしてフェイゲンと名を連ねた。


OTHERS

Terence Boylan テレンス・ボイラン
 ベッカーとフェイゲンの大学時代の友人。自身のデビュー作のレコーディングに際して、まだ学生だったベッカーとフェイゲンを参加させた。

Kenny Vance ケニー・ヴァンス
 ベッカーとフェイゲンを最初に見出し、プロへの道筋をつけた人物。ジェイ&ザ・アメリカンズの経営する音楽出版社の社員で、曲を売り込みに来た二人の才能に惚れ込んで面倒を見る。彼のはからいで二人はデモ曲をレコーディングしたり、またジェイ&ザ・アメリカンズのバック・ミュージシャンに起用されたりした。デモテープなどでは彼自身が歌ったりもしている。ヴァンスは二人の才能を信じ、いろいろと苦労を重ねて二人の面倒を見たものの関係はしっくりいかず、結局は友人だったゲイリー・カッツに二人をさらわれた形になってしまった。恩を仇で返されてしまってはかなわない。ベッカー&フェイゲンのデモテープ音源はヴァンスの手によって出版されているが、これは三人に対する復讐とも取れる。当時の曲はほとんど買い取りにしていたため、ベッカーは「デモテープ集が売れても自分の懐には一銭も入らない」とこぼしている。いい気味だろう。

Jay & The Americans ジェイ&ザ・アメリカンズ
 60年代に人気を博したポップ・ボーカル・グループ。ケニー・ヴァンスのはからいでベッカーとフェイゲンが一時期バックを務めていたが、そのころはすっかり落ち目となっていた。リーダーのジェイ・ブラックがマフィアとつながりの深い人間で、博奕による多額の借金を抱えていたらしい。

Keith Thomas キース・トーマス
 ダイアス、ベッカー、フェイゲンらで組んでいたバンド「デミアン」のボーカリスト。デモテープで聴ける渋めの声が彼のようだ。



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